捻じ曲がった自意識

 つい先日、好きなバンドの新譜が5年ぶりに出た。その新譜を聴いていると胸のうちがじわりと熱くなって、興奮が体内に収まりきらなくて全身の毛穴から漏れ出し、同時に曲から伝わる繊細な優しさに心を打たれてほろりと涙した。これはもっと多くの人に知られなければいけないという思いに駆られてツイッターで不特定多数に向けてその良さを喧伝したくなったのだけど、スマートフォンに向かって十字を切っているうちに冷静になっていき、やめた。

 ほんの少し前から好きなバンドだとか好きな小説だとか、心が惹かれたものについて語ることを躊躇するようになってしまった。というのも、自分の好きなものを聞かれてもいないのに語るということはそれを好きでいる自分のセンスを見てもらいたい、という承認欲求に過ぎないのではないか、と考えるようになってしまったからだ。

 口に出すことによって承認欲求ではないかという疑念が生じ、はじめは純粋な気持ちで好きだと思えていたのに、それはまやかしでしかなかったのではないかと虚しくなってしまう。僕はまわりからセンスがあると思われたくてその作品に接していたのだろうか。その受け入れられたい、認められたいというような欲求は社会のなかで生きていく上で欠かせない。本来ならば、その欲求は誰かの作品ではなく、自分が生み出したものによって満たされるべきだ。他人の作品について語ることで自分のセンスをアピールし、承認欲求を満たすということは虎の威を借る狐のように思える。そう思ってしまう理由はきっと僕自身は何も成し遂げてはいないということにあるのだろう。僕の中身が空っぽだということを知られたくなくて、何とか中身のある人間に見えるように必死にきれいなもので薄っぺらなはりぼてを作ってごまかそうとしている自分のあさましい姿が見えてしまう。誰も僕のことなんてどうとも思っていないから好きなようにすればいいのに、そのようなくだらないことばかり考えてしまう。

 変なふうに考えないでもっと気楽に、思いのままに生きていければいいのに自意識があまりにも捻じ曲がっていて強すぎる。考える必要のないことばかり考えて、考えるべきことを考えられていない。しかし確立された自我はこれから先も変わることはないのだろうとも思う。気色の悪い自意識とこれから先も仲良くしていかなければいけない。うまく折り合いをつけながら一緒に生きていくしかない。好きなバンドのことをツイートすることはできないのに、ブログにこのような恥ずかしい文章は載せられるアンバランスさには自分でも感服です。