20230429

 毎夜、同じものを食べている。白米を一合。わかめだけが入った味噌汁。豚肉ともやしを適当に炒めたもの。まずは週末に米を一息に炊いて、それをすべて冷凍する。それを平日の夜に解凍して消化する。味噌汁は出汁入り味噌をスプーンでひと救いして雅な椀に入れ、乾燥わかめをひとつまみ振りかけ、ケトルであたためた湯を注ぎ、スプーンで味噌を潰しながらとかしていく。豚肉は適当にフライパンで熱を通してもやしを入れ、何らかの味付けを施すだけ。醤油や塩胡椒、カレー粉、キムチ、マヨネーズなどの様々な調味料をそのときの気分によって使い分けている。一時期は白菜やピーマンなどの野菜も使っていたけれど、そういう野菜は生ごみが発生するから不快で、余すことなく使えるもやしばかり使うようになった。そのような雑な食事を毎夜している。手の込んだ料理を作るのはどうも無駄に感じてしまう。適当に弁当を買っても、もの足りない。だからと言って適当なおかずを足すと費用がかさんでしまう。できるだけ低コストで腹を満たしたい。低コストで生きるには白米をたくさん炊いてたらふく食べるのがいちばんだ。だからいまの食生活に落ち着いている。もし高い金を払って、いい食材を優れた調理法で作った料理を食べたとしても、その一瞬は確かにうまいと思い特別な気分になるけれど、寝る頃にはどのような味だったのか、はたして本当に美味しかったのか、費用や評判、状況などの実体ではないものに流されていただけではないのかと疑問を感じる。僕はそもそもそういう食事には懐疑的で、味の繊細な差異なんて僕を含めてほとんどの人が感じられないと思っている。量と味の濃さというわかりやすいもので判断するぐらいがちょうどいい。あとは食感か。食事なんてどうせ一過性だ。よく聞く言説で、「人生で食べられる食事の回数は決まっているから、それを無駄にしたくない」というのがあるけれど、むしろ僕は食事の回数を限定されているのではなく、その回数強いられていると感じてしまう。食べなければ腹が減るし、身体を維持することができない。だから無理矢理にでも飯を食わなければいけない。去年の一時期は、白米と味噌汁とウインナーだけで半年過ごしていたし、ウインナーが肉だんごだったときもある。その前は今と同じで豚肉ともやしを炒めて食べていた。外国産の鶏もも肉が他の肉と比べて格段に安かった時期にはそればかり食べていた。食事をするのはめんどくさい。僕以外の人間は、毎日一体何を食べているのだろうかと気になっている。