爪切りをなくして

 爪切りが見当たらない。爪が伸びてきたから切りたくて、いつも収納している場所に手を伸ばしたけれど、そこには何もなかった。その近辺を探ってもなくて、部屋中を漁っても爪切りの姿はない。もしかしたら前に爪を切ったときにテーブルの上に置きっぱなしにして、何らかの拍子でテーブルのすぐ隣に置いてあるゴミ箱に転がり、気づかないままに捨ててしまったのかもしれない。

 爪切りがないと気づいたときはすでに出かけるには遅い時間で、爪切りは翌日に買いに行こうと決めた。しかし、すぐに爪を切ることができないという状況では伸びた爪のことばかり気になってしまう。タイピングしているときも、本を読んでいるときも、テレビを見ているときも、頭のなかには伸びた爪のことがあって集中できなかった。いっそハサミで爪を切ろうかと思ったけれど、自分の不器用さを考えたら流血沙汰が怖くなってやめた。

 なくした爪切りにはほんの少しだけ思い出があった。数年前に大阪に旅行に行ったことがあって、出発の日の朝、最寄りの駅に着いてから爪を切ることを忘れていたということを思い出し、駅前のコンビニエンスストアで買ったのだった。その旅行ではもっぱら酒を飲んで飯を食っていた。記念になるようなものは何も買っていなくて、目に見える形として手元に残ったのは爪切りと、移動で使用するために買ったICOCAだけだ。その爪切りを見るたびに大阪に行ったことをふと思い出したりしていたので、なくしてしまったのが小指の爪ぐらいには切ない。それにくわえ、適当に買ったにしてはサイズ感や爪の切りやすさが絶妙だった。それほど力をかけずとも、自分の予定している形にパチンパチンと切れた。惜しいものをなくしてしまった。

 翌日に爪切りを買いに行った。どうせ爪切りなんてどれも大した違いはないだろうと思って、少しでも安く済ませるためにダイソーに向かい、100円の小ぶりのエメラルド色の爪切りを買った。帰宅してすぐに爪を切ったのだが、ものすごく切りづらかった。変に力がかかって、腕の筋がじんわりと痛む。爪切りには明確な違いがあって、少なくとも百均で売られているものは値段相応の勝手の悪さがあるのだということをはじめて知った。ますます前任の爪切りのことが恋しくなる。

「ものをなくしたとき、新しいものを買ったときにかぎってなくしてはずのものが出てくる」という経験はよく聞く話で、その法則の通りにひょこっと前の爪切りが出てこないかなと期待している。けれど、その法則が通用するのはその法則のことを考えていないときだけだ。きっと爪切りは出てこない。