雪解けの季節

いつの間にかだいぶ暖かくなってきた。ついこないだ夏が来たと思いきや、すぐに風が冷たくなって雪が降りはじめて、もう雪解けの季節だ。光陰矢のごとしという言葉が身に沁みてくる。人間の感覚というのは千年前でも今でも、そこまで変わりはないのだということに奇跡のようなものを感じる。歩道に積もっていた雪は次第に溶けはじめて、アスファルトが顔を出しはじめている。「雪解け」という字面は美しい。春の芽吹きを感じさせるし、小説や映画などの物語において登場人物の胸の内にずっとわだかまっていた苦悩が解けていく様の比喩としても使用されたりする。そこにはひとつの物語が終えて、次のステージへと進むという新たな生活への一歩を予感させる意味合いが内在している。しかし現実の雪解けは非常に汚らしい。かろうじて溶け切らなかった雪は土や砂や車の排気ガス、犬の小便なんかがこびりついてしまっており黒く滲んでいる。そして冬のあいだに雪のなかへと捨てられていた煙草の吸い殻だとかビニール袋やら菓子の包装紙、割り箸、ホットスナックの包み紙などが雪が溶けていくにつれて頭を出しはじめて、道端にはそれらが散乱している。雪国の春は雪のなかに隠された人間のあさましさが見えはじめる季節なのだ。だから春が近づくこの時期の雪国の路上はかなりみっともない。道は汚いけれど、空気は清々しい。肌をさすような凍てつくような風が心地の良い風に変わって、その冷えて乾いた風はどことなくいい匂いがする。その匂いには不純物がまったく感じられない。外に出たときにはあたりを見回して人がいないことを確認するとマスクを少し下げて鼻を出す。そして思いっきり鼻から空気を吸い込んでいる。マスク社会になった弊害のひとつには、外の匂いを感じづらくなったことがあると思っている。夏の湿度の高い満ち満ちとした匂いに冬のさっぱりとした匂い。道端の花や土の匂い。陽射しの匂い。それらを感じる機会がことごとく奪われてしまった。だからせめてもの抵抗でまわりに人がいないときには全身全霊をこめて匂いを嗅ぐのだ。この時期の空気を嗅ぐと、なぜだか懐かしい気持ちになる。僕がまだ子供だったときに、同じ匂いを嗅いだような気がする。具体的な時期はまったく思い出せない。けれども何か希望に満ち溢れていたころだったように感じ、同じような気持ちが時を隔てて今の僕の胸のうちにも湧いてくる。それはきっと高校生になったばかりのときに町外れの草木が生い茂った場所に位置する高校へと自転車を走らせているときや、一年間の浪人生活を終えて来たる大学生活のために街中で身の回りのものを調達していたときだ。あのころの自分はまだ人生に希望を持っていた。生きていくにつれて自分の限界に気がつきはじめたけれど、そのときはまだ自分にはこの先何でもできるのだという根拠のない万能感を抱いていた。何も知らなくて、純粋な時期だった。雪解けの季節の匂いは自分にはかつてそのような汚れを知らない時期があったのだと思い出させてくれる。そしてそういう時期があったのだということをこの先も忘れないでおきたいとその匂いを嗅ぐたびに思う。