カップ焼きそばにまつわるエトセトラ

最近、やたらに腹が減る。少し前までは起床後にプロテインを飲んで昼は何も食わずに夕方ごろになってから米を一合炊いて、鶏肉か豚肉と野菜を炒めて食すぐらいで済んでいたけれど、最近では起床してすぐトーストを二枚食べて、昼にカップラーメンを食べても夕方になるとひどい空腹に襲われる。空腹を感じたならば、飯を食ったほうがいいと思って、前の食生活に努めて戻そうとはしない。きっと自分の身体に必要だから空腹を感じているのだ。今日も起きてすぐにトーストを二枚食べた。トランス脂肪酸をべたべたに塗りたくったトースト。二枚を消費すると、ストックの食パンは尽きてしまったから買いに出かけた。六枚切りの食パンを二セットと、カップ焼きそばをソースと塩のふたつを買った。平日の昼間にあまり出かけたくないというのは、現状無職であるから他人の目を気にしてしまうからなのだと思うけれど、仕事をしていたときも平日に休みが入ることは多々あって、見かけ上では働いてるか働いてないかなんてまったくわからないのだと思うのだけど、そのときは気楽に外出することができた。そもそも道行く人の状況など、すれ違っただけで判断することは不可能だ。そうすることに意味などないし、名前も知らない他人の身辺に興味を持つ理由など何ひとつとしてない。自分に置き換えてみても平日にすれ違う人に対して、この人は無職なのかとか思案したことは今まで一度もない、しかし膨れ上がった自意識がどうしても他人の目を気にしてしまうのだからやるせない。カップ焼きそばを買って思い出したことがふたつある。それはどちらも僕が大学生だったころの話だ。まずひとつは大学に入学したばかりのときのことであった。大学内の購買で、知り合って間もない友人と他愛もない会話をしていた。その内容にはきっと大した中身はなかったように思う。相手のことをまだよく知らなくて、その人が普段どのようなことを考えている人なのか、何に興味があるのだとか、何を好んでいるのだとか、逆に何が嫌いなのかということをまったく知らずに、お互いの距離感を図りながら交流をしていた時期だったからだ。そのような不安定な間柄で話をしている時に、以前参加したサークルの新歓コンパで知り合った先輩がつかつかと近寄ってきた。彼にとって僕らはもしかしたらサークルの後輩になるかもしれない存在で、声をかけることで少しでもそうなる可能性を高めたかったのかもしれない。ちょうどそのときにいたのが、カップ麺が陳列された棚の前で、これから大学生活をする上でのライフハックを共有したかったのか知らないけれど、その先輩はカップ焼きそばを指差して「これ安いし腹も膨れるから毎日食べてる」と言った。そして彼はすぐに去っていった。それだけの話で、別に笑えるオチもないのだけど、こういうどうでもいいことが記憶に残り続けることがよくある。本当は忘れてはいけないことを忘れてしまうこともあるのに、どうしようもないことを覚え続けてしまうことがあるのは、人体の神秘のひとつだと思う。もうひとつの記憶は、これもまた大学のころの話で、大学生活がしばらくしたある日に友人がカップ焼きそばを買った。そして購買の前に設置されていたポットでお湯を入れて、確保してあった席に移動しようとしたところ、「あ、忘れてた」と友人が踵を返して、近くの誰もいないテーブルで、お湯を入れたカップ焼きそばに粉末スープを入れ始めた。それお湯を捨てたあとに入れるもんじゃないのと言うと、友人は恥ずかしそうにショックを受けた。これもまたどうでもいい記憶なのだが、カップ焼きそばを作る段階で、カップ麺と同じように流れ作業のまま粉末スープを入れてしまうことは十分に考えられるのだが、お湯を入れるという作業を終えてひと段落した後にあえてその失敗をしてしまうという人間を今まで見たことがなかったから、なぜだか衝撃的で覚えてしまっている。ふたつとも大学生のころの記憶で、やはり大学生の時期というのは今の自分が形成されるにあたって重要な時期だったから記憶に残りやすいのだと思う。しかし卒業してもうしばらく経つ。当時の友人たちは、もう連絡も取り合わなくなった人も多い。そうなるとあの時期は本当にあったのだろうかとふと思うことがある。僕は自分が大学生だったという夢を見ているだけなのではないかと、ひとりで部屋にいると思ってしまう。大学生活を共に過ごした人たちと連絡を取り合わない状況が続くと、自分だけが記憶を保持し続けて当時の記憶を当事者の友人と共有したり一緒に思い返したりすることがないからだ。僕だけがその過ぎ去った時期にしばしば思いを馳せており、連絡を取り合わなくなった人たちはもう僕のことを忘れてしまっているのではないか。結局、人生という長い道のりを考えると大学生というのはあくまで過ぎ去る地点に過ぎない。卒業して就職して家庭を持って、転職したり離婚したりすることもあるかもしれないが、環境が変われば今いる状況のことを当然いちばんに考える。過ぎ去った時期のことを振り返るというのはノスタルジックに浸るぐらいの意味しか持たない。新しいものを生み出さない。だから大半の人間はそれに縛られ続けることもなく、今を生きていく。そう考えると自分だけが過去にずっと縛られ続けて前に進めていないのではないかと、少し切なくなってしまう。あの日々は確かにあったことだと思い返し続けたいけれど、そうすることに社会的な意味など何ひとつないのだ。