遅すぎる第166回芥川賞受賞作予想

第166回芥川賞の発表が一月の半ばあたりにあった。今回は砂川文次の『ブラックボックス』が受賞したわけだけど、候補作の発表があった段階で文学系のインターネット活動者がよくやっている芥川賞受賞作予想を今回は僕もやってみようかなと思って図書館で候補作が載っている文芸誌をすべて予約した。順番を待ち続け、貸し出しの準備が整ったものから読んでいったけれど、最終的にすべてを読み終えることができたのはつい一週間前のことだった。予想をするということは完全に趣味の範疇であるので発表に間に合わせる必要もないのだけれども、失敗した気になる。間に合わせるためにはバックナンバーを取り寄せて購入するということが必要であった。それか普段から文芸誌を一通り読んでおくということ。文芸誌はこれまでほとんど読んだことがなくて、今回も受賞作が掲載されている『すばる』を借りたつもりが間違えて『小説すばる』を借りるという凡ミスを犯してしまった。もっと文芸誌のことをよく知っておきたい。候補作をすべて読んでみて、自分のなかでは島口大樹の『オン・ザ・プラネット』がいちばんよかった気がするけど、もう僕は実際の受賞作が何であるのかを知っているわけで、もしかしたら自分では気がついていないだけで逆張りの精神が働いてしまってそう感じているのかもしれない。受賞作が発表された今ではバイアスが働いてしまって純粋な判断ができないのでもどかしい。『オン・ザ・プラネット』は流れる空気感がよかったけれど、物語的に言えば石田果穂の『我が友、スミス』が面白かった。修辞的に皮肉めいたことを書いて笑いを誘うという手法は森見登美彦の小説と通じるものを感じた。乗代雄介の『皆のあらばしり』は今回直木賞を受賞した米澤穂信のような歴史的な背景のあるミステリー風味がして面白かった。どちらも面白かったのはストーリーで、純文学ならではの探求が深かったのかは読書体験のとぼしい僕にはわからなかった。これは小狡い書き方で、「読書体験にとぼしい」と書くことでそれを免罪符として批判の責任から少しでも逃れようとしている。両者の作品で似ている作家の名前をそれぞれ挙げたけれど、本来ならば作品を語る上で他の作家の名前を出してその類似性や比較を行うということはあまりほめられたものではないのかもしれない。書き手はいつだって自分にしか書けないもの、他人には掴むことのできない自分だけのものを追求しているのだ。しかし読んでみて他の作者や作品の影を感じてしまったのも事実で、そう感じたこともひっくるめて評価となる。「〜っぽいな」と思わせない唯一無二の作品を作り上げることは難しいのだろうけれど、それゆえに価値があるのだと思う。芥川賞の受賞作は知っているけれど、選評はまだ見ていないので「芥川賞のすべて」というサイトに毎日アクセスしている。まだ更新はない。文藝春秋を買ったほうが早いのだろうけれど、文芸誌のことを何も知らないヌーブの僕には該当号がまだ売っているのかもわからない。