電気ブランとドライブ・マイ・カー

久しぶりに酒が飲みたくなって、エルデンリングを売って得た金で酒を買った。近くの酒屋で電気ブランとドラッグストアで炭酸水、つまみに安いソーセージ。電気ブランは歴史のある飲み方で言うとストレートでチェイサーにビールを挟むというものがあるけれど、あまり酒を飲まない生活をしているなかでそのような飲み方は流石に厳しいので、ソーダ割りで飲むことに決めた。大学生のときはコールオブデューティをしながら電気ブランをラッパ飲みするという馬鹿みたいなことをしていたけれど、それからだいぶ年月も経って賢くなったので、そんな真似はしない。安いソーセージは安いだけあって、ボイルするとすぐに弾けてしまった。皮もパリッとしなくて柔らかかったけれど、その味の詰まった感触には満足した。それを電気ブランの、甘味がかっているのにピリっとした舌触り、まとわりつく薬草の複雑な味わいで流し込むと、とても幸せな感覚になった。酒のお供として何か動画を見ようかと思い、ずっと見たかったけれどずっと見ていなかったドライブ・マイ・カーを見た。友人からチェーホフのワーニャ伯父さんを知識として入れていたらより楽しめる、というようなことを言われていたけれど、結局それは読まずじまいだった。戯曲を読んだことがないのに加え、何かをするために何かをしなければいけないという「タスク感」があって、読むのに抵抗を感じてしまったところがある。図書館で借りていた本の期限との兼ね合いで単純に読む時間が取れなかったり、えんえんとエルデンリングをしていたからというのも理由としてはある。件の話は劇中劇として使われており、読んでいたらすんなりと内容を掴めたのだと思うけれど、映画の作り的に読まなくても内容は理解できるという上手い具合の出来だった。原作については未読で、映画を見た感じだと村上春樹の一貫としたテーマである「喪失」への向き合い方を描いたものだと思った。おそらく映画化するにあたって補足している事柄が多くあるので、原作の方も読んでその差異を確かめたくなった。映画を見たら、その友人に伝えると言ったけれど、今はもう酔いと眠気で頭がぼやけているので伝えない。うまくLINEのキャッチボールをできる自信がない。他人からおすすめされたものは意外と見ているのだけど、それを伝えたりすることはあまりないということをふと思った。僕はあまり自分から予定を擦り合わせる以外のLINEを送ったり電話をかけたりということはしないし、直接会ったときでも会話の流れに惑わされておすすめされたものを見た、ということは言わずじまいに終わってしまうことが多い。きっと彼らは、僕に何を紹介しても見てくれない、と思っているのかもしれないけれど、それは違う、ちゃんと見てはいるんだ、ということをこのインターネットの片隅で、彼らがこれを見ているかもまったくわからないけれど、言わせてほしい。友人から自分が勧めたものの感想をLINEで送られてきたりすると嬉しくなるから、僕も本当はそういうことをもっとしたほうがいいのかもしれない。自分の不器用さにはとことん嫌になるけれど、やっぱり直接会って話す以外のコミュニケーション、つまりLINEとか電話って、めんどくさい。それはきっとひとりの時間に他人が食い込んでくるからなのだと思う。あらかじめひとりではなく、他人と共有する時間であるとわかっていれば問題はない。仲の良い友人と接するのに身構える必要があるわけもないのだけれど、身構えてしまう。自分を取り繕ってしまう。ひとりの時間はありのままの、どれほど愚図で馬鹿で阿呆な自分でもそれを非難する存在がいないから気が楽なのだ。本質的に他人を恐れているのかもしれない。こんなことを言っていれば、数少ない友人がさらに減ってしまうかもしれない。でも僕はこういう人間なのだから仕方がない。