空洞

 大通りを歩いていると、僕のことをニタニタと笑みを浮かべて見つめている男がいた。目つきも鼻の形もすべてがいやらしくて、僕はとても不快な気持ちになった。僕はそれを無視して歩いていたが、その男はずっといやらしい笑みを顔に貼り付けたまま、僕のあとを追ってきた。結構長い距離を歩いてもまだ着いてきていたから、さすがに少しむかついて、勢いよく振り向いて文句を言ってやった。


「何か用ですか? その笑顔気持ち悪いですよ」


 これで少しは笑みを崩してくれるかな、と思ったけれど、その男はより一層口角を上げたような気がした。僕はぞっとして、ああこの人は関わってはいけない種類の人間なんだな、と思った。その場を立ち去ろうと、背を向けようとしたら、男は僕にこんなことを言ってきた。もちろん薄ら笑みはそのままで。


「きみ、空っぽだね。空気が人間の皮を着て歩いているみたいだよ」


 言ってることもちょっと危ないなって寒気がして全身に鳥肌が立った。僕は走って逃げた。笑みを浮かべたまま駆け足で追いかけて来たらどうしようかと思ったけれど、それから彼がつきまとってくることはなかった。


 家に着いたら汗だくだった。コップに冷たい水を注いで、くいっと一気に飲み込んで、速くなった呼吸を落ち着かせた。僕はあの男の言ってることを思い出した。空っぽ? 僕が? どういうことなんだろう。僕は洗面所に行って、鏡を見た。いつも通りの普通の僕がいた。やっぱりおかしな人間の戯言だったかと僕はため息をついたが、そのとき見えてしまった。僕の少し開けた口がただの空洞だってことが。歯も舌もない。ただのぽっかりと開いた穴だ。大きく口を開いてよく見ても、その中には何も見えない。僕は怖くなって、カミソリで手首を切ってみた。どれほど深く切っても血は流れない。その内、さくっと手首が切れ落ちてごとんと床に落ちた。その断面はただの空洞だった。僕はもう一度、鏡で自分の顔を見てみる。目も鼻もすべてがただの穴だった。僕の中身は一体どこに行ってしまったのだろう。いや、僕はもとから空っぽだったんだ。何故今まで気づかなかったのだろう。思い返してみれば、僕には何もなかった。人生のすべてをかけれるほど夢中になれた物も、生きていて良かったと心のそこから思えた出来事も、これから先ずっと一緒にいたいと思える人も。何もかも僕にはなかった。僕はただの空洞だった。