20190731

 昔に比べて僕はコミュニケーションが上手になったと思う。高校生の一時期、クラスに友人がひとりもおらず、昼休みに球技大会の練習で僕以外の全員が体育館でバレーボールをしているなか、がらんとした教室でひとりぼっちで弁当を食べていたときの僕よりもずっと、今の僕のほうがコミュニケーションが上手い。浪人して入った大学のワンダーフォーゲル部の新入生歓迎コンパで訪れた新入生がなぜか僕だけで、多数の先輩に囲まれながら焼肉を食べたけれども緊張のあまり結局肉を一枚を胃に通すことができずに必死に食べているふりをしていた僕
よりもずっと、今の僕のほうがコミュニケーションが上手い。
 そもそも僕はあまりよく知らないひとと会話をするということが不得手だった。自分の好きなものを他人に語るということが苦手であった。自分を形づくる要素を切り分けて他人に紹介するということがどうしてもできなかった。相手が話している自分が理解できないこと、納得できないこと、興味がないことに対してうまく相づちを打つことができなかった。
 社会人になって、年をとって自分を語るということがあまり億劫ではなくなったと思う。ただそのなかでもまだ語れないということはもちろんあるし、それは他のひとと比べても多いほうではあると思うけれども。
 適当に話を合わせることも得意になった。面白くない話にだって笑えるようになった。
 しかし、はたしてそれは成長と呼べるのだろうか。
 たしかにこの社会を生きていくうえでは大切なことだとは頭ではわかる。理想的な社会人像であれば成長と呼べるだろう。ただ、コミュニケーションが今よりも苦手だった過去の僕はそんななかでも大事に心のなかにしまっていたものがあったはずだ。その大事なものをどうしてか、ひとつひとつ手放しながら僕は成長していってしまったような気がしてたまらない。今の僕にはその落とし物が何だったのか見当をつけることも難しくなってしまっている。時折眠りにつく前に、過去の僕について思い浮かべる。ひとの来ないサイトを毎日更新していたときのあの僕は一体どういうことを思いながら日常を過ごしていたのだろう。今の僕のように明日の仕事のこととか、夕飯に何を食べるかだとか、光熱費とかクレジットカードの支払いとか、そのようなことはあまり考えてはいなかっただろう。ただ自分のなかにある何かを大切にしていたのだと思う。
 過去の僕も今の僕もどちらも大した人間でもろくな人間でもないけれども、僕は過去の僕のほうが好きだ。少しずつ思い出していこうかと思いながらこの日記をしたためた。
 ひさしぶりに日記を書くと、やはり文章がまとまらない。いや昔からそうだったのか?