ガールミーツレッドバルーン

 赤い風船が空に浮かんでいた。その方に目をやると強い日差しで目が眩んでしまう。どうやら前を歩く少女が手放してしまったものらしい。少女は上昇していく風船を涙混じりにただ見つめることしかできていなかった。
 不意に理彩が風船を目指して駆けだした。風船は尚も高く舞い上がっていき、理彩は風船の真下で地面を強く蹴り上げたが、届きそうな気配は全くない。それでもなお理彩は諦めていないのか、腕を精一杯伸ばして、手で何度も空を切る。理彩は一度着地してからも、もう一度同じように飛び上がったが、風船はそのまま光のなかに消えてしまった。
 僕が近づくと、理彩は「ごめんね。とれなかったよ」と少女の頭を撫でていた。少女は「ありがとう」とか細い声で答え、母親のもとへと駆けていった。
「お礼言われちゃった。とれなかったのに」
「とろうとしてくれてありがとうってことだよ」
「気持ちだけじゃ無意味なのにね」
 理彩は何とも思っていないような顔で道を歩き始めた。
「適当に散歩するのも悪くないよね。このあたりのことは大体知れたかな」
 あれから数十分、適当に辺りを散策して少しばかり足も疲れてきたし、刺すような日差しのせいで汗ばんできたので近くの喫茶店に入った。
「町を歩くのって好きなのよね。人が生活している様子とか見るのが好き」
 理彩はシロップが多めに入れられたアイスコーヒーを飲みながら言う。僕はそれに答える。
「たまにある少し古ぼけたアパートとか年季が入った建物とかもいいよね。今までここで色々な人が暮らしてきてたんだなって伝わってきてさ」
「うん、好き」
 理彩と僕はこんな些細なところで、意思を共有しているみたいに気が合うことが多い。歪な形をしたふたつの石をくっつけてみると、きれいにはまったように。
 僕はアイスティーを一口飲み、清涼感を取り戻す。店内を見回すと、どこか大正時代を思わせるレトロな調度が僕を落ち着かせた。
「そういえば、さっきの風船」
「ん?」
「理彩、結構頑張ってとろうとしてたね。おしかったけど」
「結果的に見たら何もしなかったのと同じだけどね」理彩はコーヒーに浮かぶ氷をストローでゆっくりと混ぜていた。「あの風船のなかにはひょっとしたら私の幸福が詰まっていたのかもしれないの」
「幸福?」
「風船の中身なんてさ、ただの空気やガスだって言うけど、実際には赤やら青やらの膜で覆われていて見えないじゃない? だから、もしかしたら私のこれから先の未来を明るくする最大幸福があそこに詰まっていたのかもしれない。それだったら一縷の望みだとしても、全力を出さないといけないよ」
 いつも理彩は唐突に不思議なことを言う人だった。よくわからないことだけれども、何故だかその言葉がとても意味のある重要なことに聞こえてしまう。本当に意味なんてものが存在するのかは、彼女のみが知っている。
 沈黙する僕に理彩は続ける。
「日常の何でもないところに幸せは潜んでいるの。木の陰に、道路沿いの排水溝のなかに、スーパーのお菓子売り場に、冷蔵庫のなかなんかにもね……」
 理彩はコーヒーを音を立てながら飲み干して、そっとコースターに乗せたあと、呟いた。
「どちらにせよ、とれなかったけどね」
 次第に夜の帳が降りてきて、僕らはとりとめのない散策をどちらが切るわけでもなく自然に終了させた。
 帰りの地下鉄で、大きな鉄の塊が轟音をたてて僕らを日常に送ってくれているなか、理彩は「生きたくない」と小さく呟いた。僕は聞こえないふりをしながら、上部に貼り出されていた風邪薬の広告をずっと眺めていた。