脱毛日記
20240212
靴を探して
ふと靴を見ると壊れかけていた。PALLADIUMのPAMPAという靴で、布地なのにソールがブーツのように無骨で気に入っていたのだが、布地の部分とつま先のゴムの部分の接着が剥がれてしまっていてなんともみすぼらしい。思えばもう五年ほど前に買った靴で、その年月のことを考えるとそろそろ捨てどきなのかもしれない。ついこないだ八年ほど履いたアディダスのキャンパス80sという靴も捨てたばかりだった。あとはコロナ禍の緊急事態宣言の頃にネット通販で買ったジャックパーセルがあるけれど、この靴はどうやら足に合わないらしく靴擦れを起こしてしまう。現在は仕方なく数年前に買って当初の目的では一度しか使用していないナイキのランニングシューズを履いて生活をしている。ランニングシューズだから歩きやすく何も不便なことはないけれど、一足ぐらい壊れてもいなくて靴擦れもしないスニーカーを持っておいた方がいいと思い、新しいスニーカーを買うことにした。何か物にこだわりを持つ、ということにひそかな憧れを抱いているので、またキャンパス80sを購入しようと思った。この靴ならサイズも把握しているのでネット通販で簡単に買うことができる。しかし注文のフォームに文字を打ち込むのが面倒くさくてしばらくほったらかしにしているうちに、ふと自分はキャンパス80sがとりわけ欲しくないということに気づいてしまった。そして欲しくない靴を買って履くことは、前述の物にこだわりを持つということと相反しており、形ばかり則っても虚しいだけだと購入をやめた。せっかくだから今まで履いたことのない靴を買おうと思って調べる。ニューバランスやナイキのスニーカーは履いた覚えがなかったので、そのどちらかを買おうと思った。Webサイトでラインナップを見て商品を吟味し、その中でナイキのエアマックスに興味を惹かれた。平成初期あたりにエアマックス狩りという文化があったということを小耳に挟んだことがあった。スポーティーでサイバーなデザインにどことなく郷愁を感じる。僕が幼少期を過ごした平成初期の匂いがする。実際に見に行こうと思い、電車に揺られて靴屋に行った。電車に揺られながら車窓を見ていると布地のシンプルな靴が欲しいという思いが沸々と湧いてきた。一応エアマックスを見に行こうと靴屋に行くと靴屋には壁一面に靴が片方だけ展示されている。エアマックス95のオールブラックを手に取って眺めてみたけれど、実物は写真よりもごつごつとしているように感じた。やはりシンプルな落ち着いたものにしようとエアマックスをそっと戻して陳列されている靴を片っ端から見て行ったけれど、なかなかこれだと思えるものがなかった。近くにもう一軒靴屋があり、そこも見てみることにした。その道中にドクターマーチンの店舗があり、ドクターマーチンにスニーカーなんてあるのか気になって入店した。入店するなり女性の店員が近寄ってきて僕に何かを言ってきた。おそらくは「よかったら一緒にご飯でもどうですか?」と聞かれたのだと思うけれど、僕は両耳にイヤホンを差していてほとんど聞き取れなかったため曖昧なお辞儀をしてやり過ごした。ドクターマーチンを出て、別の靴屋に入って、また商品を見ていった。その靴屋ではバンズのERAという靴がいちばん好みに合っていたけれど、悩んだ挙句ドクターマーチンに戻って、先ほど入店した時に見つけたスニーカーを試着して購入した。ドクターマーチンにもスニーカーはあったのだった。ナイロンの生地にブーツと同じような厚底のソール。黄色いステッチ。靴の一部にはレザーが使われている。かっこいい。ドクターマーチンの8ホールのブーツも5年ほど履いたやつがあり、これで夏も冬もドクターマーチンを履き続けられる人間になってしまったようだ。帰宅してその靴を手に取って眺めてうっとりとしていたけれど、ふとこれはスニーカーなのだろうか疑念が浮かんだ。そもそもスニーカーの定義をよくわからない。僕は靴の種類を、サンダル、スニーカー、ブーツ、ヒール、スポーツシューズぐらいの分類しか知らない。サンダルでもなくブーツでもなくヒールでもなく、スポーツシューズでもないものを僕はスニーカーだと思っているのだけれど、もしかしたら違うのかもしれない。この文章を書き終わったら調べてみる。
20230429
毎夜、同じものを食べている。白米を一合。わかめだけが入った味噌汁。豚肉ともやしを適当に炒めたもの。まずは週末に米を一息に炊いて、それをすべて冷凍する。それを平日の夜に解凍して消化する。味噌汁は出汁入り味噌をスプーンでひと救いして雅な椀に入れ、乾燥わかめをひとつまみ振りかけ、ケトルであたためた湯を注ぎ、スプーンで味噌を潰しながらとかしていく。豚肉は適当にフライパンで熱を通してもやしを入れ、何らかの味付けを施すだけ。醤油や塩胡椒、カレー粉、キムチ、マヨネーズなどの様々な調味料をそのときの気分によって使い分けている。一時期は白菜やピーマンなどの野菜も使っていたけれど、そういう野菜は生ごみが発生するから不快で、余すことなく使えるもやしばかり使うようになった。そのような雑な食事を毎夜している。手の込んだ料理を作るのはどうも無駄に感じてしまう。適当に弁当を買っても、もの足りない。だからと言って適当なおかずを足すと費用がかさんでしまう。できるだけ低コストで腹を満たしたい。低コストで生きるには白米をたくさん炊いてたらふく食べるのがいちばんだ。だからいまの食生活に落ち着いている。もし高い金を払って、いい食材を優れた調理法で作った料理を食べたとしても、その一瞬は確かにうまいと思い特別な気分になるけれど、寝る頃にはどのような味だったのか、はたして本当に美味しかったのか、費用や評判、状況などの実体ではないものに流されていただけではないのかと疑問を感じる。僕はそもそもそういう食事には懐疑的で、味の繊細な差異なんて僕を含めてほとんどの人が感じられないと思っている。量と味の濃さというわかりやすいもので判断するぐらいがちょうどいい。あとは食感か。食事なんてどうせ一過性だ。よく聞く言説で、「人生で食べられる食事の回数は決まっているから、それを無駄にしたくない」というのがあるけれど、むしろ僕は食事の回数を限定されているのではなく、その回数強いられていると感じてしまう。食べなければ腹が減るし、身体を維持することができない。だから無理矢理にでも飯を食わなければいけない。去年の一時期は、白米と味噌汁とウインナーだけで半年過ごしていたし、ウインナーが肉だんごだったときもある。その前は今と同じで豚肉ともやしを炒めて食べていた。外国産の鶏もも肉が他の肉と比べて格段に安かった時期にはそればかり食べていた。食事をするのはめんどくさい。僕以外の人間は、毎日一体何を食べているのだろうかと気になっている。