Suicide in Scotland

てきとうに書いていきます

アルコール

 2017年を迎えてから、なぜだか人と飲む機会が多くなった。取引先との華々しい出世街道を期待しながらの煌びやかな高級店での接待などではなく、ただ仲の良い上司と仕事終わりに飲み放題900円の安居酒屋でくだない話をするだけっだり、友人とは大人になったならではの夜の遊びをしていた。夜の遊びについては大学生のときから知っていればもっと元気はつらつなキャンパスライフを送ることができたのでは、と後悔が少なからずある。クラブなんかは人間の欲望が充満していて、端から他人の動物じみた求愛のダンスを見てるだけでも面白かった。
 
 いつもアルコールを入れると僕は笑い上戸になってしまう。あとから思い返してみるとくだらないことでも笑ってる。箸が落ちただけでも笑ってしまう。
 普段の僕はいつも泥で塗り被ったような仮面生きているという感覚ある。本当の自分と仮面の自分。僕からしたら、まあ本人であるし、どのような人間かは自覚することができる。けれども仮面の僕を見ている人は、一体僕にどういう人物像を描いているのだろうか、とたまに気になるけれども、すぐにどうでもよくなる。この世のすべてはどうでもいいことで埋めてくされているのだ。
 アルコールを飲んだ際にできる人格というのは何なのだろう。切れやすくなる人がいたり、急に泣き出してしまう子もいる。たまにアルコールに脳が汚染された人が酩酊状態のなかで作り上げた創作言語を叫ぶ 人もいる。酔ってるときは本能をさらけだしたときの状態である、なんてことを聞いたことあるけれども、はたしてあれってどうなんでしょうかね。アルコールなんてただのドラッグじゃないですか。それだったら麻薬とかでアッパーになってる人はその瞳孔が開きっぱなしで半開きの口の端から唾液が出ている姿が本性なんですか。

  どうしてかアルコールを飲むと、いままで具合が悪くて手も震えていたのに、急にしゃっきりとして楽しい気分になってしまう。まさかこれがアルコール中毒の前兆なのか。
 それでいて飲み会も楽しいまま終わり、「解散!」と幹事が手をたたいて全員バラバラな方角に消えっていった直後ではひどい自己嫌悪が襲ってくる。調子に乗って言ってはいけないこととか言ってないだろうか、振る舞いとかも周りから馬鹿にされてたんじゃないか、などといった負の感情が僕を急に襲ってくる。「なんかもう死にたい」と思い続けてしまうこともある。もうこうなると何も手につかなくなったりする。飲み会翌日だと何をする気も起きないし、タバコもまずい。酒に至っては飲む気にもなれない。一日中、スマートフォンで見たくもない動画を見続けて一日が終わる。飯は食べない。

 僕は飲み会は案外好きなのだけれも、行く度に鬱っぽくなってしまうので、あまり行かないほうがいいのかもしれない。

夜の水晶

 スコットランドの小説を読んでいたので、昨日の仕事終わりにコンビニエンスストアカティサークとカルパスを買った。カルパスをかじりながらカティサークを三分の二ほど飲むと、気がつかない内に寝ていた。目が覚めると脳細胞の九十パーセントが死滅してしまったのではないかと思われるぐらい頭が痛く、さらには不安定な体勢で眠ってしまっていたらしく背中にも張るような痛みがあった。鎮痛剤を嚥下して湿布も貼ったが、そんな程度ではすぐによくなるわけもなく、一日床に伏せていた。
 本当は今日は映画を見に行く予定だった。前々から楽しみにしていた映画が昨日公開日だったので、先週の仕事中はいつも映画のことばかりを考えていた。しかし体や頭が痛い、腹の調子も悪いというバッドコンデションで映画を真っ正面から受け止めることは到底できないということは安易に予想され、最大限にその映画を楽しむためには心身のバランスが良いときを見計らって行くしかない。つまり、今日ではなかったということだ。
 しかし、僕にはこんなことが頻繁にある。平日はいつも休日の予定を頭のなかで練り上げて、休日の前日になると休日を楽しむための完璧なスケジュールが頭のなかでは仕上がっているというのに、いざ休日を迎えると昼過ぎまで寝て、目が覚めてからもだらだらと生産性の皆無な行動をとってしまう。平日のあいだに蓄積されて見て見ぬふりをしていた疲れやストレスが一息に襲ってきていたのだろうか。せっかくの休日だというのにこれではもったいない、というよりもどうして自分は生きているのだろう、という気にさえなってくる。
 毎日二十二時頃に帰宅して、飯を食らって寝る。朝も早く起きて、地下鉄に揺られて機械のようにどうでもいい仕事をする。他の人から見たら僕はおそらくただの歯車としか見えていないのではないか。地下鉄に乗る歯車。飯を食う歯車。睡眠をとる歯車。
 平日ですらこの調子で、休日も何もできないとなるといよいよ生きている意味というのがわからなくなる。子供のころの僕はまさか自分がこんな空っぽの存在になってしまうだなんて思っていなかった。サラリーマンだとしても、ドラマで見るようなスタイリッシュで華やかな働き方をしていると、勝手に想像していた。昔の僕に言いたい。それは誰かが作り出したイデア的な仕事風景だ。まやかしだ。実際の仕事は地味でそのくせ責任だけ大きくて、しかも長い目で見ると無駄でしかないものばかりだ。僕がひたすら頑張って業務をこなしたとしても、会社に爪垢ほどの利益が出るだけだ。おそらくは僕がしたことも数年経てば忘れられてしまうだろう。僕だけじゃない。ただ社会は金をぐるぐると回しているだけで、端から見たらほとんどのものに意味なんてないのだろう。
 僕は貴重な時間を無駄にしている気がしてたまらなく怖い。この先何の意味も持たないまま生きて死んでいくのだろう、と考えるとどうしようもなく恐ろしくなる。漫画やアニメみたいに、お姫様を救うとか親の敵をとるなどの明確な目的は、この世界では与えられない。だから人生の意味なんてものは自分で探して、それを盲信するしかないのだろう。そもそも意味なんて考えないで何となくで生きている人がどうも多いように思えるけれども、その人たちと違って僕は器用ではないから、どうでもいいことばかり考えて苦しんでしまう。
 時間は有限だ。体もすぐに衰える。人間が好きに生きられる時間は限られている。その限られた時間のなかで、どう自分らしく生きていくかを模索しなければいけない。夜の海に落とした水晶を探すみたいに。

空洞

 大通りを歩いていると、僕のことをニタニタと笑みを浮かべて見つめている男がいた。目つきも鼻の形もすべてがいやらしくて、僕はとても不快な気持ちになった。僕はそれを無視して歩いていたが、その男はずっといやらしい笑みを顔に貼り付けたまま、僕のあとを追ってきた。結構長い距離を歩いてもまだ着いてきていたから、さすがに少しむかついて、勢いよく振り向いて文句を言ってやった。


「何か用ですか? その笑顔気持ち悪いですよ」


 これで少しは笑みを崩してくれるかな、と思ったけれど、その男はより一層口角を上げたような気がした。僕はぞっとして、ああこの人は関わってはいけない種類の人間なんだな、と思った。その場を立ち去ろうと、背を向けようとしたら、男は僕にこんなことを言ってきた。もちろん薄ら笑みはそのままで。


「きみ、空っぽだね。空気が人間の皮を着て歩いているみたいだよ」


 言ってることもちょっと危ないなって寒気がして全身に鳥肌が立った。僕は走って逃げた。笑みを浮かべたまま駆け足で追いかけて来たらどうしようかと思ったけれど、それから彼がつきまとってくることはなかった。


 家に着いたら汗だくだった。コップに冷たい水を注いで、くいっと一気に飲み込んで、速くなった呼吸を落ち着かせた。僕はあの男の言ってることを思い出した。空っぽ? 僕が? どういうことなんだろう。僕は洗面所に行って、鏡を見た。いつも通りの普通の僕がいた。やっぱりおかしな人間の戯言だったかと僕はため息をついたが、そのとき見えてしまった。僕の少し開けた口がただの空洞だってことが。歯も舌もない。ただのぽっかりと開いた穴だ。大きく口を開いてよく見ても、その中には何も見えない。僕は怖くなって、カミソリで手首を切ってみた。どれほど深く切っても血は流れない。その内、さくっと手首が切れ落ちてごとんと床に落ちた。その断面はただの空洞だった。僕はもう一度、鏡で自分の顔を見てみる。目も鼻もすべてがただの穴だった。僕の中身は一体どこに行ってしまったのだろう。いや、僕はもとから空っぽだったんだ。何故今まで気づかなかったのだろう。思い返してみれば、僕には何もなかった。人生のすべてをかけれるほど夢中になれた物も、生きていて良かったと心のそこから思えた出来事も、これから先ずっと一緒にいたいと思える人も。何もかも僕にはなかった。僕はただの空洞だった。

こちらで

羊の水海

こちらでいまは記事を書いています。

今流行のテキストサイトです。

小説って字見ると背筋がぞっとする

 ある日の記事にコメントがついたから読んでみると、同人誌への誘いだった。僕は同人的活動にも憧れがあるし、あわよくば参加してみたい! と常々思っていたので嬉々としてリンク先を見てみるといかにもうさん臭いサイトであった。紹介文も同人誌のタイトルもうさん臭くて、その同人誌のタイトルで検索をかけると、やはり悪質なサイトであるらしい。入会金やら会費やらをかすめとって、小説書きを食い物にするけしからんサイトのようだ。僕はひどく落ち込んでしまって、ブログを書く元気もなく、食べ物も喉を通らず、夜も眠れず、涙はとまらないし手はずっとがたがたと震えて、半ば発狂してしまい、しまいには精神科におせわになり薬漬けとなって今までずっと入院していた。

 当然そんなことはデタラメでただ更新する気力とネタがすでに尽きていただけである。

 

 どうにもこうにもにっちもさっちもいかない現状なわけだけれども、とりあえず僕はやっぱり小説を書かなければいけないと思い、今やっとしこしこと書いていたりする。一応このブログは小説家志望が小説を書いて行く行くはノーベル文学賞をとって名誉を手に入れて教科書に載ろう、というブログなので、一応それらしい記事が書けるようになってもう満足だ。十分満足なのでもう小説を書くのはやめることにしよう。

 

 パソコンで文章を書こうとすると、ネットに繋がっているものだからついついchromeを開いてしまって優雅にYouTube鑑賞なんかしたりして時間は無駄にしてしまうので、タブレットブルートゥースのキーボードでも買って執筆専用端末にしようかなあとネットを徘徊していたりした。でも、それらを購入するマネーももったいないし、そういえばポメラDM20も持ってるしなあと思い出したりして中々買うことに踏み出せず、結局ずっと価格.comでずっとタブレットのページを見続けていたら、気が付けば一週間近く経っていてびっくりだ。これが浦島太郎状態というやつなのかな。こんなに時間を無駄にするなら本末転倒、買うなら買うでさっさと買ってしまえばよかった。結局タブレットなどは買わずにポメラでしこしこと書いている。でもやっぱりタブレットブルートゥースのキーボードを組み合わせれば良い執筆端末ができあがると思うんだよなあ。何だか未練たらたらでまたまた時間を無駄にしていきそうな雰囲気が漂っている。時間を無駄にすることは僕の十八番だ。履歴書の趣味と特技の欄にもでかでかと「限りある時間をどうでもいいことで潰していくこと!」って自信を持って書ける。とても優秀な人材ですね。誰か雇ってください。

僕は大学なんて行く意味がないと思ってる

 ロングスリーパーの僕は一日十二時間は寝ないと日中、ろくなパフォーマンスを見せることができない。昨日は五時間しか寝られなくて、ずっと頭はぼんやりとしてるしテンションなんて全くあがらないし、そもそも何も感じることのできない無の状態にあった。

 五時間睡眠なんて多くの人にとっては大したことではないだろう。一二時間しか寝ることのできない人だっているはずだ。けれども僕の脳や体は五時間では足りないとしきりに主張する。

 睡眠以外にも人にはそれぞれのキャパシティが存在する。笑いの沸点なんかもそうだし、キレるタイミングも人によって異なる。身体的にも人は他人と差異を抱えていて、生活している環境によってその差異はさらに大きく広げられる。

 真の平等とはこの差異を理解したうえで構成されていくべきなのではないだろうか。全員が同一の存在とみなして無責任に物事を振り分けるのではなく、それぞれに適した環境を提供し、それぞれに向いていることをさせる。適材適所というやつだ。僕はこの言葉が好きである。

 今の世の中、本当にその人にしかできない仕事をしている人間なんてごくわずかしかいない。わざわざ奨学金を借りて大学に行ったのに、卒業したあとは誰にでもできる仕事に就いて、人生の歯車と化してしまうのは少し悲しい。

 

 そういえばこの頃、奨学金についての話をよく耳にする。奨学金とは名ばかりの学生ローンの話だ。この学生ローンで金を借りて大学に通った人が卒業後に「金を返したくない、返すというのはおかしいのではないか?」とおかしなことを言う人たちがいる。厚顔無恥も甚だしい。借りた金は返すのが当たり前だ。事前に返却しなければいけないと告げられているのに、いざ返す時期がくると駄々をこねるなんて一体なにをしに大学に行ったのか。

 しかし、今の世の中は大学に進学してそこから良い企業に就職する、ということが正しいレールとして見なされている。家が裕福でないものは奨学金を借りて大学に進学しなければいけない。卒業するころには年齢に見合わないほどの借金を抱えている。そのような格差には疑問は確かにある。

 

 奨学金というのは中々よくできたシステムである。若者に借金を背負わせることにより働かなければいけないという状況を作り上げ、若者たちをいとも簡単に社会の歯車、労働するロボット、経済に貢献する操り人形へと変貌させてしまう。そんな人間になるために就職予備校と化した大学に行くことは本当に大切なことなのだろうか。何かを真剣に学びたい人だけが大学に行くべきだ。

世界と脳のお話

 子供のころから時折、何故僕はこの世の中に存在しているのだろうと考えることがあった。何故僕は他の誰でもなく僕なのであって、この世の中はどうして存在するのだろう。そう考えると頭がぼうとしてきて、僕が僕から離れていく感覚に陥り、その不思議な状態がどことなく好きだった。

 何故この世界は存在して、何のために生きていかなければならないのか。もしかしたらこの世界はすべて脳がつくりだした幻であって、あるときふと自分は水槽のなかで浮かんでいる脳なのだと自覚するときがあるかもしれない。この世の中はそんな脳が自己保身のために自分自身に見せた幻、魔法である。ただそれだけなのかもしれない。

 全面的に世界を信用するなんてことは到底できそうにないが、それでも僕らはその疑わざるを得ない世界のなかで必死に生きていかなければならない。世界や自分の存在をいくら疑っても答えなんて出るはずもない。そんな無駄なことのために一秒一秒を無駄にして生きていってはいけないはずだ。

 ただ、明確な答えではなく取り繕った結論なら思いつく。この世界にも自分にも意味などないのではないか? すべてを知覚し記憶するのは頭蓋骨のなかに詰まっている小さな脳である。その脳が活動をやめたときに世界も自分も、認識することはできなくなり、それはその脳の所有者にとっては万物の崩壊をあらわすことになる。すべては無へと帰る。死ぬことはすべて存在しなくなるということだ。生きていたときに期待していたことも不安だったこともすべては等しく0になる。どんな優秀な人生を歩んでも、死ねば0になる。もしかしたら死ぬということは、この世界のなかで唯一平等なことなのかもしれない。誰だって死ねば価値がなくなる。最終的にすべての人に0が掛けられる。魂の抜け落ちた身体に価値などはない。死はただ一つの救済なのだ。スタートラインも走る速さも誰でも同じではないけれども、最終的にたどりつく場所は同じなのだ。大手企業の役員も、フリーターもその人生の内では様々なことを考え、体験するけれども結局待っているのは死ぬことだけである。結果的に見れば、人生に優劣など存在しない。それを測る物差しも存在しない。最終地点は誰でも同じだ。人類は皆、平等に同じところにたどり着くことができる。

 そう考えて生きていけば、色々とラクに世の中を見ることができるだろう。深く考えたって、どうせすべての物に意味なんて無いのだからね。