曖昧な漫画の影

 しばらく前に以前見て良かった映画の監督の最新作の発表があった。その時はティザービジュアルと詳細不明だが原作ありの作品だということしか発表されていなかった。前述の映画がいわゆるエモい系の作品だったので、そういう雰囲気の小説なんかをもとにした映画なのかなと思っていた。
 先ほど、そういえばその映画の続報はあったのだろうかと調べてみたら、どうやら10年ほど前の漫画が原作になっているみたいだった。そしてそのタイトルには見覚えがあり、僕も当時単行本を買って読んでいた漫画だった。3巻までしか出ていないし連載終了してからは何も話を聞かなかったから、ほとんど忘れかけていたので驚いた。確かにあの漫画は面白かったよな、と思ったけれど、どういう終わり方をしたのかもう忘れてしまっていて気になったので電子版でまた購入した。五年ほど前にそれまで集めていた紙の漫画はすべて捨てたので手元にはなかった。
 自分がその漫画を、当時どうして買おうと思ったのかまったく思い出せない。インターネットで見て気になったのか、本屋で見て惹かれたのか、そのどちらかだとは思うのだがまるで思い出せない。昔は気になった漫画をすぐに買って読んだりしていた。そこで新しく世界が広がることもあるし、つまらない漫画を買ってしまったなと憤ることもあった。今は昔よりも金銭的に余裕があるのにそういうふうに知らない漫画を買うということはあまりしなくなってしまった。今は出版社が運営する数多のアプリを駆使して、毒にも薬にもならない漫画を一過性のものとして読んでいるからあまり心に残っていない。家に本を置きたくないから本屋にも行かなくなって、未知の作品に出会うことがめっきり無くなってしまった。大人になってできる範囲が広がったのに頭の中の世界はその分狭くなってしまったように感じてしまうから悲しい。

脱毛日記

 4年ぐらい前から時折髭の脱毛をしたいと思っていた。毎朝髭を剃るのが面倒くさく、剃ったところで鏡に映るのは青々とした汚らしい肌でかなりみっともない。しかし脱毛に行くことすら面倒くさくて、ずっとほったらかしにしていた。
 ブラウンの安物の電動シェーバーを5年ほど使用しており、そろそろ買い替えるべきかとAmazonを見ていたが、いつか脱毛をするのだとしたらシェーバーなんて新調する必要ないのではという思いもあり、一方で髭脱毛に行く踏ん切りもつかずに、ただただ古いシェーバーを使い続けていた。
 数日前に飲みに行った際に写真を撮る機会があり、その写真にうつる自分を見ると口元の青髭がやはり汚く、そこばかり気になってしまった。酔った勢いのまま、近くの脱毛クリニックを予約した。
 今日の午前にカウンセリングを行い、髭脱毛についての説明を受け、すぐに契約をした。午後に初回の施術を受けられることになり、3時間ほど時間が空いてしまったので、CoCo壱でカレーを食べたりルノアールでコーヒーを2杯飲んだりして時間を潰してから施術を受けた。
 髭の脱毛は痛いという話は聞いていたけれど、そこまででもないだろうと根拠はないが高を括っていた。今まででいちばん痛かった思い出というのを考えてみたら、イボの治療に思い当たる。高校生の時に足の親指にイボができ、皮膚科で治療を行った。その治療というのが液体窒素でイボを焼くというもので、本当に火で炙られているかのごとく痛み、処置後はしばらくまともに歩けなくなるぐらい痛かった。それに比べればマシなのだろうと思っていた。
 髭の脱毛はイボの治療に匹敵するか、もしかしたらそれ以上に痛かった。なんというか、目とか鼻とか口とかの感覚器官の付近だから、足を液体窒素で焼かれるよりも痛みを近く感じる気がした。鼻下も痛いし、顎も痛いし、頬も全部痛かった。レーザーを照射されるたびに体がこわばり、全身から汗が吹き出た。涙も出た。看護師に「痛いの痛いの飛んでいけ」ってしてもらわなかったら耐えれなかったと思う。レーザーを照射する直前に看護師が決まって「行きます」って言ってくれていたのだが、後半になると照射のスピードが速くなり「いきます!いきまっ!まっ!まっ!まっ!まっ!まっ!」と謎の掛け声と共に照射されることになって、ちょっと面白く思えてだいぶ気が紛れた。
 だいぶ涙目のままクリニックを出た。あと9回受ける予定だけれど自分で金払って契約したくせにもう憂鬱になってきた。でもこれでもうすぐ青髭ともおさらばできるとなると楽しみだ。ただもう髭を生やしてダンディーな文豪スタイルになれなくなるのだと思えば少しだけ寂しい。
 

20240212

 土曜日にはじめて山登りをしてきて、あまり部屋から出ない所以か、その疲れがまだじんわりと体にあるらしく重かったが心地よかった。筋肉に疲労を感じることで自分の行動が想定通りの正しい結果をもたらしたことを実感できる。山登りは気持ちよかったから時々行こうと思う。あまりきつすぎず緩すぎず、自然が綺麗なちょうどいいところに登りたい。
 起床してしばらくはだらだらと本を読んでいた。本を読むと言っても、最近はもう電子書籍しか読まない。そういえばパソコンで縦書きの文章を読むことがほとんどないなと思い、なんとなくパソコンのkindleアプリで読んでいた。椅子に座り、背筋を伸ばすことを意識して読んだ。最近は正しい座り方を意識した方が良いのではと思い、時折思い出したかのように背筋を伸ばす。気づけばいつも猫背で足を組んで、だらしのない体勢をしてしまう。
 15時ごろに少しは日の光を浴びとこうと思い立って、外に出た。家の近くの割と大きな公園まで歩いて、その公園にある大きな池の前のベンチで座ってぼんやりと池を見て過ごした。
 その後は喫茶店で珈琲を飲みながらまた読書に勤しんだ。その喫茶店にははじめて入ったのだが、大人の喫茶店、みたいな看板があったから、かなり厳かというか静かめの空間なのかと期待したが、常連の客やマスターが割と大きな声で話してたからまったく静かではなかった。でも調度も年季が入っていて良かったし、珈琲もうまかったからまた行こうと思った。その帰りに、近くの別のコーヒーショップに行ったことを思い出した。その時に近くに座っていた中年の男性が大学生ぐらいの女性に、ずっと自分の人生論を語っていて面白かったけれど、具体的な内容は思い出せなかった。きっと今思い出さなかったら、その状況のことも忘れてしまっていただろう。別に覚えるほどの内容でもない。この他にも僕は色々なことを忘れて、別のことを記憶して、何かを忘れたことにも気がつかないまま生きている。すべてを記憶していくことは不可能だから、少しでも何かを引き留めようと、もう少し日記を書く習慣をあらためてつけようと思った。
 家に帰って風呂に入って、先々週の土曜日に届いていたösterreichのloreを見ながらこれを書いている。2022年に行われたライブが収録されたDVDで、その配信も当時視聴しており、懐かしい思いがする。2022年がずっと遠くのことのように思える。

靴を探して

 ふと靴を見ると壊れかけていた。PALLADIUMのPAMPAという靴で、布地なのにソールがブーツのように無骨で気に入っていたのだが、布地の部分とつま先のゴムの部分の接着が剥がれてしまっていてなんともみすぼらしい。思えばもう五年ほど前に買った靴で、その年月のことを考えるとそろそろ捨てどきなのかもしれない。ついこないだ八年ほど履いたアディダスのキャンパス80sという靴も捨てたばかりだった。あとはコロナ禍の緊急事態宣言の頃にネット通販で買ったジャックパーセルがあるけれど、この靴はどうやら足に合わないらしく靴擦れを起こしてしまう。現在は仕方なく数年前に買って当初の目的では一度しか使用していないナイキのランニングシューズを履いて生活をしている。ランニングシューズだから歩きやすく何も不便なことはないけれど、一足ぐらい壊れてもいなくて靴擦れもしないスニーカーを持っておいた方がいいと思い、新しいスニーカーを買うことにした。何か物にこだわりを持つ、ということにひそかな憧れを抱いているので、またキャンパス80sを購入しようと思った。この靴ならサイズも把握しているのでネット通販で簡単に買うことができる。しかし注文のフォームに文字を打ち込むのが面倒くさくてしばらくほったらかしにしているうちに、ふと自分はキャンパス80sがとりわけ欲しくないということに気づいてしまった。そして欲しくない靴を買って履くことは、前述の物にこだわりを持つということと相反しており、形ばかり則っても虚しいだけだと購入をやめた。せっかくだから今まで履いたことのない靴を買おうと思って調べる。ニューバランスやナイキのスニーカーは履いた覚えがなかったので、そのどちらかを買おうと思った。Webサイトでラインナップを見て商品を吟味し、その中でナイキのエアマックスに興味を惹かれた。平成初期あたりにエアマックス狩りという文化があったということを小耳に挟んだことがあった。スポーティーでサイバーなデザインにどことなく郷愁を感じる。僕が幼少期を過ごした平成初期の匂いがする。実際に見に行こうと思い、電車に揺られて靴屋に行った。電車に揺られながら車窓を見ていると布地のシンプルな靴が欲しいという思いが沸々と湧いてきた。一応エアマックスを見に行こうと靴屋に行くと靴屋には壁一面に靴が片方だけ展示されている。エアマックス95のオールブラックを手に取って眺めてみたけれど、実物は写真よりもごつごつとしているように感じた。やはりシンプルな落ち着いたものにしようとエアマックスをそっと戻して陳列されている靴を片っ端から見て行ったけれど、なかなかこれだと思えるものがなかった。近くにもう一軒靴屋があり、そこも見てみることにした。その道中にドクターマーチンの店舗があり、ドクターマーチンにスニーカーなんてあるのか気になって入店した。入店するなり女性の店員が近寄ってきて僕に何かを言ってきた。おそらくは「よかったら一緒にご飯でもどうですか?」と聞かれたのだと思うけれど、僕は両耳にイヤホンを差していてほとんど聞き取れなかったため曖昧なお辞儀をしてやり過ごした。ドクターマーチンを出て、別の靴屋に入って、また商品を見ていった。その靴屋ではバンズのERAという靴がいちばん好みに合っていたけれど、悩んだ挙句ドクターマーチンに戻って、先ほど入店した時に見つけたスニーカーを試着して購入した。ドクターマーチンにもスニーカーはあったのだった。ナイロンの生地にブーツと同じような厚底のソール。黄色いステッチ。靴の一部にはレザーが使われている。かっこいい。ドクターマーチンの8ホールのブーツも5年ほど履いたやつがあり、これで夏も冬もドクターマーチンを履き続けられる人間になってしまったようだ。帰宅してその靴を手に取って眺めてうっとりとしていたけれど、ふとこれはスニーカーなのだろうか疑念が浮かんだ。そもそもスニーカーの定義をよくわからない。僕は靴の種類を、サンダル、スニーカー、ブーツ、ヒール、スポーツシューズぐらいの分類しか知らない。サンダルでもなくブーツでもなくヒールでもなく、スポーツシューズでもないものを僕はスニーカーだと思っているのだけれど、もしかしたら違うのかもしれない。この文章を書き終わったら調べてみる。

20230429

 毎夜、同じものを食べている。白米を一合。わかめだけが入った味噌汁。豚肉ともやしを適当に炒めたもの。まずは週末に米を一息に炊いて、それをすべて冷凍する。それを平日の夜に解凍して消化する。味噌汁は出汁入り味噌をスプーンでひと救いして雅な椀に入れ、乾燥わかめをひとつまみ振りかけ、ケトルであたためた湯を注ぎ、スプーンで味噌を潰しながらとかしていく。豚肉は適当にフライパンで熱を通してもやしを入れ、何らかの味付けを施すだけ。醤油や塩胡椒、カレー粉、キムチ、マヨネーズなどの様々な調味料をそのときの気分によって使い分けている。一時期は白菜やピーマンなどの野菜も使っていたけれど、そういう野菜は生ごみが発生するから不快で、余すことなく使えるもやしばかり使うようになった。そのような雑な食事を毎夜している。手の込んだ料理を作るのはどうも無駄に感じてしまう。適当に弁当を買っても、もの足りない。だからと言って適当なおかずを足すと費用がかさんでしまう。できるだけ低コストで腹を満たしたい。低コストで生きるには白米をたくさん炊いてたらふく食べるのがいちばんだ。だからいまの食生活に落ち着いている。もし高い金を払って、いい食材を優れた調理法で作った料理を食べたとしても、その一瞬は確かにうまいと思い特別な気分になるけれど、寝る頃にはどのような味だったのか、はたして本当に美味しかったのか、費用や評判、状況などの実体ではないものに流されていただけではないのかと疑問を感じる。僕はそもそもそういう食事には懐疑的で、味の繊細な差異なんて僕を含めてほとんどの人が感じられないと思っている。量と味の濃さというわかりやすいもので判断するぐらいがちょうどいい。あとは食感か。食事なんてどうせ一過性だ。よく聞く言説で、「人生で食べられる食事の回数は決まっているから、それを無駄にしたくない」というのがあるけれど、むしろ僕は食事の回数を限定されているのではなく、その回数強いられていると感じてしまう。食べなければ腹が減るし、身体を維持することができない。だから無理矢理にでも飯を食わなければいけない。去年の一時期は、白米と味噌汁とウインナーだけで半年過ごしていたし、ウインナーが肉だんごだったときもある。その前は今と同じで豚肉ともやしを炒めて食べていた。外国産の鶏もも肉が他の肉と比べて格段に安かった時期にはそればかり食べていた。食事をするのはめんどくさい。僕以外の人間は、毎日一体何を食べているのだろうかと気になっている。